■浅羽家に伝わる話■

 「あなたたちのおじい様(佐喜太郎)がおこなったことは、気の毒な外国の人を助けてあげたのですから、立派なことなのですよ。でもその人は、フランス政府や日本の警察に追われているインドシナの偉い人だったのです。決して口外してはいけませんよ」と。チャウ達の退去から半世紀余、浅羽家ではこのことを固く秘し続けて来た。佐喜太郎の孫和子さんが、母ゆき江さんからきつく言われていたことである。
(佐喜太郎の孫浅羽和子さん談・・町史 柴田静夫)

 「祖父は病弱だったので郷里の静岡県浅羽町と東京の中間に当たる国府津という海岸の空気の良い場所を選んで病院を建てました。当時は前羽村といっていました。病院の窓から海が見え、波の音が聞こえる所でした。天気の良い日には、大島の三原山の煙が見えたのも憶えています。庭先が急に低くなり、庭の松の木越しに和が見えるという感じでした。私の母の雪江はここから小田原高等女学校に通っていました。
 祖父が亡くなって沼津に移りましたが、その引越荷物の中にベトナム人形やおもちゃが入っていたのを憶えています。祖父とベトナムの留学生との関係は詳しいことは聞いていません。遠州の海か、国府津の海か定かではありませんが、ちょうど今の難民のように、ベトナムの方が鰹船にかくれて乗りつけてきたことがありました。
 言葉は通じないが漢字が分かるというので、村人が祖父のところへ連れて来て筆談をしたことから交際が出来たというようなことも聞いています。ほかにも、汽車で来た人、船で来た人が集まって病院にかくまわれていたそうです。病院にはいつも数十人の貧しい人が住みついていて、その人々の中でベトナムの留学生がグループを作って生活していたそうです。母はベトナムの留学生がギターやバイオリンを弾いてくれるのが楽しみで、よく部屋へ遊びに行ったと話していました。2年以上居ついている人もいましたが、大部分の人が短期間で入れ替わったそうです。病院に迷惑をかけてはいけないという配慮が働いたのでしょう」。やがて、フランスの官憲から通告があって、前羽の駐在所の巡査が調べに来るようになったと母が話していました。実際に小田原警察の刑事に踏込まれたこともあってその後、祖父は何人かの留学生を梅山の実家に移転させたと聞いています。
墓と記念碑(東遊運動が遺したもの)南方文化12輯 富田春生著から



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  浅羽佐喜太郎の交流
報恩の碑 常林寺の紀念碑