■報恩の碑■

 日本を追われた潘に安住の地はなかった。上海や杭州・香港などの雑踏に紛れ、あるいは広西・雲南の辺境に潜み、執拗な追求と逮捕・監禁・獄中の生活など命を懸ける日々であった。
 1917年(大正6)5月、潘はひそかに日本へ来た。この7年前、1910年(明治43)9月25日浅羽佐喜太郎は43歳で亡くなっていた。これは、潘が日本を退去させられた次の年である。大恩ある浅羽先生はすでに亡く、潘は哀惜の念に堪えず、御恩に報いることも、感謝することもできなくなったことを痛感、先生の墓前に記念碑をと決意した。そして、つぎの年、それを実行しようと再び日本へ来た。

 「私(潘)は静岡(袋井駅か?)に着いて石碑を造る費用を調べた。石材と刻字の工賃で100円、それを運んで完成させるのに100円以上・・・・・。しかし私の懐中には120円しかなかった。私と李仲柏は東浅羽の村長さんのお宅へ行って事の次第を述べた。
今お金が不足しているから、中国へ行ってととのえて・・・・・と話した。村長さんは大変感激・・・・・石碑はすぐ建てるようにと。そして私たちを自宅に泊めて・・・・・週末の金曜日、村の小学校へ授業参観に連れて行ってくれた。・・・・・児童たちに、日曜日に家の人を学校に連れて来て、私の話を聞くようにと言われた。・・・・・日曜日、私たちは村長さんの案内で小学校へ行った。大勢の父兄が集まっていた。村長さんは、浅羽先生の義侠の行いについて話し・・・・・私と李仲柏を紹介・・・・・。このお二人が千里を越えて、こんな田舎の村へ来て、浅羽先生のために石碑を建てようとされている。・・・・・私たちも手伝ってあげようではないか、と。万雷の拍手が起こった。さらに村長さんは、このお二人には石材と石工の手間賃を負担してもらうだけで、石碑の運搬と建設費は村で出そうではないか・・・と訴えた。学校いっぱいに賛成の声が・・・」(立教大学教授 後藤均平訳「潘佩珠年表」)

 石碑の完成まで約一ヵ月、碑は浅羽佐喜太郎家の墓所、梅山の常林寺境内に建てられた。一b余に積みあげられた石垣の上に高さ二.七b、幅〇.八七bという大きなものである。
(浅羽町史通史編:浅羽佐喜太郎の章 柴田静夫著・編)

 「完成の日には、村人が集まり完成の式典を行い、自分達を主賓にして祝宴を張ってくれた。これは、皆村長の計らいであった。自分達はたかだか百円あまりを払っただけであった。このような日本人の義をベトナムの同胞に知らせたいので特にこの事を書き残す。」と



ファン・ボイ・チャウと
  浅羽佐喜太郎の交流
浅羽家に伝わる話 常林寺の紀念碑