■潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と浅羽佐喜太郎の交流■

20世紀の初め、東遊運動と呼ばれる日本を舞台にしたベトナムの革命運動がありました。


東遊運動
 十九世紀アジアの各国は西欧列強の侵犯を受け、植民地化が進んでいました。ベトナムも仏統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。1905年(明治38)、日露戦争における日本の戦勝をきいたベトナム革命組織・維新会の代表ファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出国をして日本へ来ます。ファン・ボイ・チャウは清国戊戌(ボジュツ)の政変で日本に亡命中であった梁啓超を横浜に訪ね、在野の政党リーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより革命の為の人材養成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。筆談ながら、国の前途を賭けた激烈で清新な議論に、同席した柏原文太郎は三国志の英雄の話を聞くようであったと、チャウの人物に大きな魅力を感じています。犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
 日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と書き上げベトナムに送り込みます。これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため出国してきます。東京同文書院はこれらの留学生のために教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。最盛期の1908年(明治41)には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。
 このような反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、この時期留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていました。日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年(明治41)秋留学生に解散命令を出します。この為、多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていました。



浅羽佐喜太郎の支援と日本退去 
 借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、そして東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
 ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。が、朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。(当時の東浅羽小学校の校長の月給は十八円であった。)その手紙には『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』とほんとうに簡潔であるが、温情のある言葉が添えられていました。
 1909年(明治42)3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
 退去後9年、1918年(大正7)ファン・ボイ・チャウが日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでになく、佐喜太郎への報恩のために立てられたのが、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大きな記念碑です。
文責:安間 幸甫


報恩の碑 浅羽家に伝わる話 常林寺の紀念碑の
 碑文